まちの本棚だより

2015.5.31 【ブックレビュー】まちへのラブレター: 参加のデザインをめぐる往復書簡 text by かつ

「まちへのラブレター: 参加のデザインをめぐる往復書簡 」
山崎亮 乾久美子 /著者
学芸出版社/出版社
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「みんなでつくることの設計」

みんなでつくる。みんなで考えるという言葉の美しさや耳ざわりの良さに、ついつい忘れてしまうことも多いが、みんなで何かをつくりあげることはひとりでやること以上に念密な設計が必要になる。みんなで考えるという手法は決して誰かの意思でものごとが決定し、自動的になにかが進んでいくような他律的なものではない。

ワークショップという言葉も一般化し、多くの人が主体形成としてのワークショップの効力を疑うことなく認めている。
自分自身も主体形成に関しては、ワークショップは非常に有効だと思うし、特段東北や市街地でのまちづくりのような、主体がこれまでいなかった所、もしくは今までのステークホルダーではない主体が立ち上がりつつある所に対しては、ワークショップの場所自体が意思決定の場ではなく、何か緩やかなネットワークを繋げていく場としてはなくてはならなかっただろう。
しかしながらこのワークショップ、重ねれば重ねるほど集団としてのフラストレーションが溜まることもある。ある熱気まで達することは容易できても、みんなでつくることが創作を更なる高みに引き上げることはなかなか少なかったりする。
もうだいぶ前に読んだ本「まちへのラブレター」ではこのあたりのことがわりとあからさまに触れられているので面白かった。
この本はコミュニティデザイナーの山崎さんと建築家の乾さんが往復書簡を交わすという斬新な構成なのだけど、いったって変化球的なコンセプトの本であるだけでなく、結構内容も興味深かったりする。往復書簡という形式をとることで二人の胸のうちにある疑問がそのまま、読者にも提示される。

山崎さんの坊主スタイルをゲイカルチャーを代表するかのような風貌と言ってみたり、いちいち毒を含む挨拶を往復書簡の冒頭にぶち込んでくる乾さんは、いちいち面白いのはさてき、乾さんは終始コミュニティで何かをつくるということに懐疑的だった作り手というスタンスを提示する。
思えばこの本のはじまりは宮崎県延岡市の延岡駅のデザイン監修者として乾さんが、選ばれたことに端を発する。実はこのプロポーザルを手伝ったことが、僕にとって今の職場で働くきっかけでもあり最初のプロジェクトだったわけだが、公開プレゼンでは他の候補者が駅前を含めたまちづくりのビジションを提示するなか、乾さんだけが景観や市民協働型のまちづくりに対しての考察や課題を提示していた。結局この時は乾さんの誠実さを示した変化球のようでド真ん中ストレートのようなプレゼンの前に負けてしまったわけだけど、その直後に東日本大震災が発生し実践型のまちづくりの現場に一気に飛び込むことになる。

さて話がそれてしまったけど、
ワークショップは果たして創造的な働きをするのだろうか。
例えばまちに公共施設ができる時、地権者たちの権利の調整や運営側の言い分、そして複雑な行政手続きに伴う仕事に忙殺されて、まちのユーザーであるはずの市民の声は、なおざりにされることが多い。こうした時ワークショップは大きな役割を果たす。公共の場所で募った意見たちは、個々の発言を超えて、俯瞰された意見になる。だからといってそこには多数決=市民の声と捉える必要はない。大きな意見よりも声に出せない小さな意見を慮ることも本質的には重要なことだ。

本書ではそうしたワークショップの側面以上に、形や色を決めるプロ(デザイナー)と場を使うプロ(市民)が協働する創造的なプロセスこそ、参加のデザインの醍醐味だと捉える。そして参加のデザインの向こう側に多くの可能性を見出す。
そこでふと思い出した話がある。建築家の内藤廣氏が中南米で図書館をつくったときのこと。まちじゅうの人が集い、祝い、夜通しお祭り騒ぎが起こったというエピソードがあった。建築を建てること、地域に公共建築が完成することは、本来そういった祝祭の場であっただろう。
しかしながらそれはある地域社会が求める建築が非常に明快である状況に限られるのかもしれない。図書館さえなかった辺境のまちに本がある場が出来る。それは誰もが歓迎し、誰もが明快にその必要性を語れるだろう。しかしながら縮小化する社会においては、誰のために何をつくるかさえも明確ではない。まずはつくるこが歓迎されるような環境づくりが重要だ。

自分のまちに公共施設がつくられることも対岸の火事がごとく関心が薄れて来てしまっている昨今、建造環境以前に建築環境をつくることに、建築的な思考はどうやって寄与できるだろうか。いずれにせよ“建築をつくる環境”をつくることさえも、大きな建築の仕事になることは間違いがなさそうだ。つまりみんなでつくることの設計が求められることが時流になったということだ。

Text:勝邦義

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